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  • Ranucci事件

 

 

 

フランス マルセイユで起きた少女誘拐・殺人事件

犯人とされるChristian Ranucciは死刑となるが、冤罪の可能性について大きな議論を呼び、死刑制度廃止の一つの原因となった。

 

事件発生

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Google マップ

1974年6月3日

11時、マルセイユのChartreux地区、Cité Sainte-Agnèsの住宅棟前でMarie-Dolorés Lambra(6歳)とその弟Jean-Baptiste Lambra(3歳)が遊んでいた。少し前には近所の友達二人が一緒だったが、今は兄弟だけだ。

二人は車に乗った男に呼び止められる。男は黒い犬を一緒に探して欲しいと頼む。二人は承諾し、弟Jeanは住宅棟の右手に向かい、Marieは男と一緒に残る。2階に住む母は窓からJeanが一人でいるのを見て声をかけ、Jeanは犬を探しているんだ、と答える。だが母はまだ何が起きているのかを知らない。住宅棟を一回りしたJeanは、姉も男もいなくなっているのに気づく。たまたま父親が仕事から帰ってきた。周囲を探した後、父親はMarseille警察署(通称l' évechée)に向かった。

 

警察はすぐに誘拐事件と判断し出動する。警察署詰めの記者たちも、ともに現場に向かかう。弟のインタビューが残されている。弟によると、男は若く、長身で、「ここで話す言葉」(Marseille方言)を話していた。車の色は灰色だ。

 

 誘拐現場:Google マップ

 

同じ日、12時から12時15分の間、マルセイユから北東20kmの国道5号線(現在は県道5号線)のPomme交差点で、Vincent Martinezとその婚約者の乗った車(Renault16)が、脇道(国道5bis)から一時停止標識を無視して飛び出してきたPeugeot 304と接触事故を起こす。Renault車はPeugeot車の左側(運転席側)後ろ部分に追突し、Peugeot車は弾みで大きく左に回転する。しかしPeugeotは、止まることなく、来た方向にそのまま走り去った。Martinezは通りかかったAubert夫婦(Alain,Aliane)の乗ったRenault 15にPeugeotの追跡を依頼する。Aubert夫妻はPeugeotを約700メートル追跡し、道路脇(右側)に停車したPeugeotを発見する。

 

Aubert夫婦は車のナンバー(1369 SG 06)を控え、Martinezが待つPomme交差点に引き返した。Aubert夫妻は幼女を連れた男が茂みに逃げたことを伝えている。Martinezは13時15分にGreasqueの憲兵隊(gendarmerie)に被害を届け出た。Aubert夫妻はRoquevaireの憲兵隊に口頭で事故を知らせている。

このときの、Aubert夫婦とMartinezの正確な行動、憲兵隊に何を通報したのが後に問題となってくる。 

 

 

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Vincent Martinez        Aubert夫妻(Aliane,Alain)

 

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  Pomme交差点での現場検証時の写真。右から飛び出してきたPeugeotにRenault15が衝突する。

 

事故から6時間ほどたった17時頃、事故現場から2Km付近の坑道の雇人Mohamed Rahouに、若い男が助けを求めに来る。彼の304が茸栽培場として使われている坑道に入り込んでしまったのだ。ピクニックに来て、ブレーキが緩く車が滑り込んでしまったという。304は曲がりくねった坑道の一番奥で、車を入り口に向けた状態で入り込んでしまっていた。近くには「透明な液体」が入った大型容器が置かれている。車を少しでも軽くするために降ろしたのだ、と男は説明する。前輪前にいろいろなものをかませるが、304は坑道を脱出できない。

やがて、たまたま見回りに来た、雇い主Henri Guazonneが現れる。Rahouと同様、Guazonneも男の話を不審に思うが、男の落ち着いた態度と清潔な身なりを見てあえて追求しない。

結局、304を坑道からだすためには、Guazonneのトラクターが必要だった。18時30分頃、彼はGuazonneに感謝をするべくRahouの家に立ち寄るが、Guazonneがいなかったためお茶を飲み、Nice方向へ戻っていった。Ranucciは平静・丁寧で、彼らとお茶を共にしている。

 

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A:事故現場 Google マップ C:停車位置 Google マップ F:茸栽培場への入り口 Google マップ G:茸栽培場に使われている坑道 Google マップ

 

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            RanucciのPeugeot304 

左は実物、左側面に衝突の痕跡がある。右はおそらく現場検証のときに用いられた304。(警察はRanucci拘留後、母に車をいったん返却したが、現場検証には当該車を用いている)

 

 

 

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 Henri Guazonne(事件当時)                  TV映画[Combat d'une mere]のシーン

 

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実際の茸栽培トンネル(2005年頃撮影?)

 

1974年6月4日

誘拐事件は朝から大々的に報道される。

マルセイユ警察では、犯罪課北部担当課長Gerard Alessandra指揮のもと、Jules Porte、Pierre Grivel捜査官等が担当することになる。

10時にはMartinezが前日の事故についてマルセイユ警察に通報している。また、4日昼の放送を見たAubert夫妻は、15時15分になって、前日通報したRoquevaireの憲兵隊に再び通報している。記録では、Aubert夫妻は、事故車から立ち去る男を見たこと、その男は「大きな荷物を抱えていた」と話している。茸栽培場のGuazonneは、自らGreasqueの憲兵隊を尋ね、前日のPeugeot車のことを述べる。GuazonneはPeugeot車のナンバーを記録していたのだ。

 

一方、誘拐現場周辺の聞き込みから、 近くの自動車整備工Eugene Spinelliも誘拐現場を目撃していることがわかる。彼は、娘が灰色の車に乗るのを目撃している。彼は車種をSIMCA 1100と断定する。

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   自動車整備工Eugene Spinelli

 

 

1974年7月5日

12時15分頃、Martinezは犯罪課に電話をし、Aubert夫婦から伝えられたことを報告する。記録では、若い男を見ただけではなく、彼に話しかけた、となっている。直後にAlain Aubertからも同様の電話がかかってくる。

 

この日、Aubert夫妻は証言を変えている。男は「大きいなにかを持っていた」のではなく、「女児を連れていた」というのだ。「男が助手席(右側)の扉を開け、女児をおろして一緒に茂みを上っていくのを見た。」

 

警察は14時05分から、事故を起こしたPeugeot車が停車した位置近傍と、茸栽培場坑道の捜索を開始する。

 

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警察は坑道の入り口から奥30mの位置で「赤いセーター」を発見する。湿度が高いトンネルの中でセーターは乾いており、つい直前に置かれたものと判断される。事件の最初の証拠品、「Scellé No.1」として保存された。証拠品を保全するために封印したことから"Scellé"(封印されたもの)は「証拠品」を意味するのだ。

  

一方、国道上のPeugeot事停車位置から右側の茂みを100mほど上った付近では、 15時45分、木の束に隠された女児の遺体が発見される。遺体の頭部は激しい損傷を受け、頭蓋骨は砕け散っていた。血の付いた石も発見される。15時55分、Marseille重罪院予審判事Di Morenoは現場の保全を命令する。後の検視の結果、女児の体には15の刺し傷が認められ、直接の死因は絞殺だった。

 

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赤いセーター。Scellé No.1                 遺体発見現場付近で採取された血の付いた石

 

Marieの父が遺体を確認する。その模様は報道により撮影され、繰り返し報道されることになる。

 

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 Peugeotのナンバーから、すぐに所有者Christian Ranucciが浮かび上がる。20才。Nice 在住のサラリーマンだった。18時15分、Christian RanucciはNiceの自宅で逮捕され、Nice-Ouest憲兵隊に移送された。容疑は「事故後の逃亡」である。

19時に尋問が始まり、20時には容疑(事故後の逃亡)を認めている。検事調書でRanucciはざっとこう述べている。

 

Aix-en-ProvenceからNiceへ戻る途中、車両事故を起こした。一時停止標識から2速で交差点に侵入したとき、左側から衝突された。16時頃だったと思う。運転免許失効を恐れ逃亡した。1km程走った頃、タイヤが車体にこすれているのに気付き、停車して修理を試みた。右手に柵があり、道路が通じていたので柵を開けて侵入し、数百mの地点で修理を行った。しかし車がぬかるみにはまっていたので、近くの人を呼んで助けてもらった。18時にはその場所を離れ、22時にはNiceに帰宅した・・。時計を持っていなかったので、時間の確証はない・・。

 

Niceの憲兵隊は車両事故についてのみ尋問しており、女児誘拐のことは知らない ようだ。

しかし、この間、予審判事DI MarinoからMarseille警察Alessandra宛に審理通知が送付され、Nice共和国検事承認のもと、容疑が追加されることになる。

 

 

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捜査

 

1974年6月6日

午前1時、RanucciはNice-Ouest憲兵隊からMarseille警察に移送される。前日18時15分に始まった予備拘禁下のままである。フランスでは24時間(予審判事、共和国検事の承認があれば延長可)の警監拘留(garede a vue)が認められており、この時点で、6時間15分が経過していた。

容疑は「事故後の逃亡」に加え「誘拐および殺人」である。

Aubert夫妻は、再び証言を修正する。事故後、車から逃げた男に声をかけただけではなく、男が返答したというのだ。夫妻は茂みに隠れた男に声をかける、「車損事故にすぎない、戻ってこい」(”Ce n'est q'une accident matérielle, retournez!")。男はそれに答える、「後で戻るから、ほっといてくれ!」("Je reviendrais, laissez moi!")。

 

いわゆる「面通し」が行われたが、Aubert夫婦も、被害者の弟Jeanも、Ranucciを特定できなかった。9人の二次的証人もRanucciを特定できなかった。

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6月6日に行われた「面通し」Ranucciは中央3番。

 

Aubert夫妻は、その後、Ranucci一人だけとの「面通し」が行われる。この手続きが違法であるか合法であるかも後に問題となる。Aubert夫妻は今度は彼を確認する。特に妻Aliane Aubertは停車位置で彼を見たと強く証言する。これを受け、Ranucciは動揺し泣き始める。最終的に、彼は自供する。13時を回ったところであり、予備拘禁から19時間が経過していた。

6日の取り調べは1730(1700とも)に終わる。17時15分、彼が示した場所 ー 茸栽培場近辺の泥炭置き場 ー から飛び出しナイフが発見された。自供の経緯から飛び出しナイフの発見までの過程も、後に問題視される。

 

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 6日13時過ぎの自供から17時までの間に、Ranucciは誘拐現場の見取り図を描いている。

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この「見取り図」も、のちに問題となる。後述するPerrault等が「単なる殴り書き」と主張することになる。また、この見取り図の細かい分析(線の強弱、文字の傾きなど)から、Ranucciが警察の誘導により作成したのだとする者もいる。

しかしながら、多くの人が実際の現場と驚くほど似ているとしている。特に、Ranucciが駐車したとされている車の位置近くにある「低い塀」が描きこまれていることにRanucci有罪派は注目する。逆に、無罪派は、当時あった大きな樹木(プラタナス?)が描きこまれていないことに注目する。

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事件発生当時の樹木 Perraultは、「珍しい樹木であり、書き落とすことはあり得ない」と主張する。

 

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1980年頃に撮られた現場写真。2016年現在も大して変わっていない。

 

また、同じ6日に、警察は事故現場、遺体発見現場、茸栽培場近辺、ナイフ発見現場の精密な図面を作成している。

 

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遺体発見現場:①足跡②血の付いた尖った石③靴④血の付いた枝と血の付いた丸い石⑤遺体が発見された叢

 

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遺体発見現場高低差A国道B溝E遺体発見現場

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茸栽培坑道:A坑道入り口B鉄の扉C柱D空の泥炭置場E小さな塀F茸栽培場へのプラスチックの扉

1左前輪タイヤ痕の採取位置2燃料容器の位置3GUZZONEの証言による、304の後輪にかませていた石4右後輪タイヤ痕の採取位置5後方でピュロベールが発見された扉6タイヤ痕の消失地点

 

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ナイフ発見位置:Aレンガ造りの建物B茸栽培場への道C基礎部への道D堆肥置き場E森や茂

 

図面の日付が6月5日となっているのは、遺体が発見された5日に、誘拐事件の捜査が公式に取り上げられたためである。6日に発見された飛び出しナイフの証拠目録に6月5日という日付が書かれているのも同じ理由である(Perraultは日付の相違を警察陰謀説に結び付けている)。

誘拐現場の図面はないか、公表されていない。また、警察は誘拐の二人の目撃者、弟Jeanと自動車整備工Spinelliの調書もとっていない。

 

1974年6月7日~

Ranucciは重罪院予審判事Di Marinoの命により、La Baumettes刑務所に収監され、Marseille警察から定期的に尋問を受ける。

 

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1974年6月10日の調書 この時点では犯行を否認していない。

 

1974年6月24日

この日、予審判事Di Marinoにより実況見分が行われる。警察車両に乗り込んだのは、Di Marinoのほか、Grivel捜査官とRanucci、弁護士Le Forsenney、市民側弁護士(被害者側の弁護士)の5人だけであった。他の警察官を載せた車が彼らを追う。

誘拐現場では、Ranucciは車から降りず、車上からの見分となる。二人の目撃証人も召喚されていない。Le Forsenneyの抗議に対し、Di Marino予審判事は保安上の理由を説明する。

事故現場付近では、RanucciのPeugeot304とMartinezのRenault15の衝突の経緯を確認した。Di Marinoは、Ranucciが言うように「2速で交差点に進入した」ことはあり得ない、と結論付ける。

国道5bisを数百m先の逃走したあとPeugeot車が停車した地点の現場検証には報道陣も多く集まっていた。Ranucciは停車位置から遺体発見現場まで、導かれることもなく歩いている。

しかし、殺害現場でナイフと女児に模した人形を持たされたRanucciは発作状態となり、犯行を否認する。何も覚えていない、自分がやれることではない、と主張する。さらには、記憶がないと主張する。これに対しDi Marino予審判事は「記憶喪失のふり」をしていると判断する。

そこから、茸栽培用坑道までを歩く。ナイフ遺棄現場について尋ねられると、Ranucciは手錠で結ばれた警官を引きずるようにして数mを歩き、ナイフ発見場所を正確に指し示す。 坑道のすぐそばである。Di Marino予審判事は坑道が暗く、湿っていることを確認したのみで、坑道の中には立ち入っていない。

 

1974年12月27日

 この日は予審判事Di Marinoとの最後の面会であった。Di Marinoはこれまでの検事調書を読み上げ、Ranucciに確認を求めるが、Ranucciは黙秘する。召喚したにもかかわらず、弁護士が立ち会っていないのだ。Di Marinoはこれが最後の機会であることを諭す。そしてRanucciは公式に犯行を否認するのだ。

車両事故、飛び出しナイフの投棄場所の確認、誘拐現場の地図を見取り図を描いたことは認めたものの、誘拐・殺害そのものを否認したのだ。

 

弁護人

 

これより以前、Ranucciの母は息子の弁護士を探していた。新聞記者が紹介した弁護士が不在だったため、著名な弁護士Pierre LombardがRanucciの弁護を引き受けることになる。

Lombardは苦悩したうえ、「冷却期間を置くため」若く、世間には知られていないJean Francois Le Forsonneyを弁護人に指名する。22歳のLe Forsonneyにとって最初の仕事となる。やがてPierre Lombardが弁護士として加わる。最終的には三人の弁護士が法廷に立つことになる。

 

Patrick Henry事件

 

裁判は1976年3月9日と10日におこなわれることになる。

しかし、2月にPatrick Henryによる幼児殺害があったため、世論は沸騰していた。新聞紙は死刑を求め、いたるところに死刑賛成の落書きが現れる。

 

法務大臣までもが、TVインタビューで、「個人的には」幼児殺害者には死刑がふさわしい、と述べる状況だ。

フランスは死刑制の廃止・存続に二分されていたのだ。

Lombardは裁判の前日(数日前とも)、馴染みの記者を夕食に招く。そして、記者たちに弁護方針について質問する。「無罪」と弁護するべきか、「情状酌量」と弁護するべきか?記者たちは情状酌量を求めるものと思っていたので愕然とする。

3人の弁護団の中でも弁護方針について意見が分かれていた。Lombard自身は全面無罪での弁護を決めていた。弁護団の一人は、袂を分かつ。

 

1976年3月9日

 1976年3月9日、Aix-en-Provenceで裁判が開始される。

裁判は2日しかない。群衆の狂乱的な雰囲気の中、裁判が開始される。Ranucciは最初こそ平然としていたものの、途中で苛立ちはじめ、終には不遜な態度をとるようになる。弁護士の間にも意見の相違が生まれる。 

「赤いセーターを着た変質者」の証人Mattei夫人は反対尋問に崩れさり、裁判長から偽証罪について説教されることになる。

 3月10日、死刑が求刑される。陪審員は9対3で有罪を認める。情状酌量は8対1で棄却された。

3月12日、弁護団は上告する。6月17日上告は棄却され、死刑が確定する。

 

大統領特赦

 

大統領Giscard d'estaingは以前から死刑制度反対論者であった。実際、大統領選で彼は死刑制度廃止を打ち立てている。7月21日、Lombardは特赦に最後の望みをかける。大統領は特赦の可否を決定する前に、弁護人と一対一で会談するのが慣例である。Lombardは大統領と会談し、特赦は確実だと判断する。しかし、マルセイユへの帰路途中、Lombardはラジオでニュースを聞く。Toulon近郊で6歳児が誘拐されたのだ。大統領が特赦を検討しているときにこれほど悪いニュースはない、とLombardは思う。児童の遺体は2日後に発見される。そして世論は今まで以上に沸騰する。テレビでは葬列が中継される。群衆が泣き崩れ、母親が卒倒し、祖母が苦悩の叫び声を上げ続ける。「あいつ」が特赦されたらLa Beaumettes刑務所を放火する、という声すらあがる。

 

誤報

 

7月27日、AFPが速報を流す。大統領が特赦したのだ。LombardやLe Forsonneyは報道陣から知らされる。Lombardは直ぐにRanucciの母に連絡し、シャンパンを用意する。しかしそれは誤報だった。La Beaumettes刑務所でも、ラジオで知った看守がRanucciに特赦を教えてしまっていた。特赦はない。Le ForsonneyはRanucciに最後の手紙をしたためる。

 

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 大統領特赦を拒否するGiscard d'estaingの命令

 

処刑

1976年7月28日

27日18時、弁護団は自宅待機を命じられる。処刑には弁護士の立ち合いが必要なのだ。

Paul LombardとLe Forsonneyは深夜、待ち合わせをする。La Beaumettesを訪れる。午前4時、Ranucciの独房に看守がなだれ込み、彼を押さえ込む。Ranucciは弁護士に言うぞ、と怒鳴る。弁護士はここにいるのだ。Ranucciは母親からの手紙を読む。無表情だ。そこから、刑務所全体を通って、中庭に通じる部屋へ移動する。Ranucciを座らせ、タバコと酒を与える。タバコは吸ったが、酒は断った。神父への告解を拒否する。荒縄で縛られ、荷物のようにギロチンへと運ばれる。流れる水音で何も聞こえない。機械的な音が三回。「クラック、クラック、クラック」Le Forsonneyは回想する。La Beaumettesの小さな扉に官報が貼られる。「Christian Ranucci est mort, a 4h13.」

 

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冤罪説

 

1976年当時は、単なる女児誘拐殺害事件としてみられていたようだ。当時の新聞を見てみると、扇情的な大見出しで「幼児殺害犯」の報道が続いている。しかし、1980年、1931年生まれの作家、ジャーナリストであるGilles Perraultがこの事件を冤罪として「赤いセーター」を発刊、雰囲気は変わっていく。

この本は大反響を巻き起こし、文字通り飛ぶように売れた。1979年には映画化されるが、多くの県で上映禁止となる。

Perraultはさらに「Christian Ranucci: vingt ans après」(1995年)、「L'ombre de Christian Ranucci」(2006年)を発行。

取材した事件の証人や警察関係者から名誉棄損で訴えられ、何度も敗訴している。

 

Perraultの冤罪説の根拠は以下のようなものだ。

  • 誘拐の二人の目撃者ー自動車整備工Spinelliと弟はRanucciを特定することも、自動車を特定することもできなかった。二人に対しては調書も取られず、証人としても採用されなかった。
  • 上記目撃者二人の目撃した車は一致しており、灰色のSIMCA 1100である。 
  • 「赤いセーター」を来た男が全く同じ手口で複数回同様の犯行を試みていたという証言がある。
  • Ranucciが場所を指定したにも関わらず、飛び出しナイフが発見されるのに時間がかかりすぎている。
  • Ranucciを特定したAubert夫妻の証言が変節している。3日は事故の報告のみ、4日は男が大きな包みを持っていたといい、5日は男が女児と一緒にいたとし6日には男が呼びかけに返事したとしている。
  • Martinezについても同様。3日に事故車には一人しか乗っていなかったと報告しているが、なぜ誘拐事件と関連付けして、通報したのか。

 

冤罪説への批判

 

発刊当時から、Perraultの冤罪説を疑問視する者も多かったようだ。事実関係の誤りや、日時の不整合が指摘されている。Perraultが名前を秘匿する警察関係者の証言、Ranucciに有利な証言者など、不自然な点も多い。

そのうち、Perraultの取材内容が捻じ曲げられたという事件関係者や、冤罪に加担したとされた事件関係者からの名誉棄損訴訟が相次ぐようになる。

2006年には、Gérard Bouladeau(元警察関係者)がPerraultの冤罪説を検証し、反駁する本「L'affaire du pull-over rouge,Ranucci coupable!:Un pull-over rouge cousu.. de fil blanc」(「赤いセーター事件、Ranucciは有罪だ!」)を出版。

Perraultは反論するが、Bouladeauはすぐに「Autopsie d'un imposture」(詐欺の検証)を出版する。

 

Bouladeauは、Perraultの会陰財説に対し、次のように反証している。

  • 被害者の弟Jeanは一度もSIMCA 1100とは言っていない。
  • 自動車工Spinelliがいた地点は遠すぎて車種を特定できない。
  • 飛び出しナイフは実際にはすぐ発見されており、逆にRanucciの犯行を裏付けている。
  • 「赤いセーターを着た変質者」を目撃したのはMattei婦人は、Ranucciの母の友人である。Mattei婦人の息子もBeaumettes刑務所の受刑者であり、二人は面会時に出会っている。
  • Ranucciと母親の面会時に、実は自分が犯人である、と話しているのを聞いた看守が複数いる。当時フランスでは合法。

 

背景

 

当時、フランスは度重なる児童殺害事件で死刑制度存続・廃止で世論が二分されていた。

フランスの死刑制度存続派は

1960年 39%

1962年 34%

1969年 33%

1971年 53%

1975年 56%

 と推移しており、Giscar d'estaing大統領も苦慮していたと思われる。

 

現時点でも、Ranucci冤罪説は根強い。母は今でも息子の名誉回復のために戦い続けている。この事件に対しては数多くの映画・書籍・TVドキュメンタリーが制作され続けている。しかし、Ranucci冤罪説は次第に少数派となっているようだ。

 

擁護派Gilles Perraultが自ら語っているように、もしRucacciが犯人でないなら、彼はとんでもない偶然に翻弄されたことになる。真犯人(赤いピュロベールの男)がMarieを誘拐し、死体を遺棄した、決定的な二か所に、Ranucciが同じ時刻・場所にいたことになる。

 

いずれにせよ、この事件がフランスの死刑制度廃止へとつながったことは否定できない。「たとえ彼が犯人であろうとなかろうと、司法制度への疑問そのものが、死刑制度廃止への十分な要因となりえるのである。」

  

資料

書籍(日本語)

赤いセーターは知っていた(上・下)ジルペロー著、白鳥祐司訳、1995年、日本評論社

Gilles Perraultの最初の本Le pull-over rougeの和訳。訳者はフランス刑法の専門家でもあるため、法律用語は(勝手に)流用させていただきました。

書籍(仏語)

 

  • Gilles Perrault,Le Pull-over rouge,Paris,Le Livre de poche,coll <<Litterature et Documents>>(no 5 032),14 mai 1980,468p(ISBN 978-2-253-02543-6)

   1975年のPerraultの最初の本の文庫本

  • Gilles Perrault,Heloise Mathon,Jean-Francois Le Forsonney,Daniel Soulez Lariviere et Jean-Denis Bredin,Christian Ranucci:vingt ans apres,Paris,Editions Julliard, coll. <<Essais>>,21 avril1995,275p(ISBN 978-2-260-01091-3) 
  • Gilles Perrault,Le Deshonneur de Valery Giscard d'estaing,Paris,Editions Fayard,coll <<Documents>>,29 septembre 2004,89p(ISBN 9780-2-213-62285-9)
  • Gerard Bouladou, L'affaire du pull-over rouge,Ranucci coupable!:Un pull-over rouge cousu.. de fil blanc,Nice,France Europe Editions,2 mars 2005,383p(ISBN 978-2-848025097-7)
  • Gilles Perrault,L'Ombre de Christian Ranucci:L'affaire de pull-over rouge(1974-2006),Paris,Editions Fayard,coll <<Documents>>,24 aout 2006,267p(ISBN 978-2-213-62887-5)
  • Gerard Bouladou,Autopsie d'une imposture.L'affaire Ranucci:toute la verite sur le pull-over rouge,Aix-en-Provence,Editions Pascal Petiot,12 octobre 2006,335p(ISBN 978-2-848-14034-8)

 

INTERNET(仏語)

仏版Wikipedua:Affaire Christian Ranucci

 Affaire Christian Ranucci — Wikipédia

有罪派と無罪派が内部で抗争している。有罪説には無罪派が修正、無罪説には有罪派が修正するため、「有罪である根拠」と「無罪である根拠」がほぼ同じ内容になるなど、見ていて面白い。

Dossier Ranucci

Dossier Ranucci - page d'accueil

Ranucci事件に関しては、数多くのサイトがあるが、最も資料が整理され、公平性が保たれていると思われる。FORUMがあり、両派が激論を続けている。

 

TVドキュメンタリー(仏語)

Faites Entrer L'accusee:CHRISTIAN RANUCCI L'enigme du pull-over rouge

Christian Ranucci : l'énigme du pull-over rouge - Faites entrer l'accusé #FELA - YouTube

2003年7月17日放映:フランスの人気犯罪番組、通称FELA。司会のChristian Hondeletteの話術もさることながら、事件当事者への直接取材する手法で、面白い。

全体的には冤罪説を取り上げながらも、さりげなく有罪を示唆している感じ。出演する事件関係者は冤罪派が多い。Ranucciが描いた見取り図を完全に無視したことで有罪派から批判されている。

 

Les Detectives de l'histoire;Ranucci coupable ou innocent?

A 15 Ranucci coupable ou innocent - YouTube

2007年12月7日放映:MMRに似たやらせ感満載の番組だが、内容はよく調べている。

Boudeleauが2006年、2007年と続けてPerrault批判の本を上梓したこともあり、Perraultを中心に「探偵」たちが検証を続ける。最後にPerraultが反論するが、反論というよりはむしろ苦しい言い訳になっている感がある。

 

映画・TV映画(仏語)

Le combat d'une mere

L'affaire Ranucci " le combat d'une mère " (2006) - YouTube

2007年1月29日放映:Ranucci無罪派の観点に立つTVフィルム。名誉棄損を恐れてか、関係者の名前は全て代えられている。母親が無実の息子の救出に翻弄するという内容。

 

文責・るぷらぷら